百三十四歩目 得られるもの
2016.8.17[Wed]
先日、「志」という言葉が教育の現場から消えようとしているという話を聞きました。
そして、そこに危機感を持つ有志の方々が「志教育」というものを海外へ伝え広める活動をされていると知りました。
聴いた感想・・というよりも、湧いた疑問は「志」を外国語でどのように表現するのだろう・・?
それを考えるためにはそもそも「志」とはどういうものなのかを知る必要があると感じました。
僕には「『志』とは何か?」について今一つはっきりとした明確な答えを見出せてはいませんが、ここで窺えることは、「志」というものが今の時代を生きる人の考えの中には薄れているもしくは既に無くなっているということ、公的な教育の立場をとる側にとっては都合が悪いということでしょうか。
巡礼という旅。
800km以上もの道のりをわざわざ自分の体重の半分の重さの荷物を背負って歩くこと自体、想像を超える過酷さがあり、これは体験してみないと感覚的に理解することはできないと思います。
大人でも悲鳴をあげリタイアする人も少なくありませんし、文字通り命を落とす人もいる道です。
せめて荷物を最小限にしていればまた違った旅になったかもしれませんが、結果的にみても僕らはこれでよかったと思えます。
・どうして歩こうと思ったんですか?
・どうすればそうまでして歩けるんですか?
そんな質問をよく聞かれるのですが、始める前も、歩いている最中も、特別な理由なんてないんですよね。
ただ小学生の子どもたちに感心するのは、一度たりとも「もう嫌だ」「やめたい」「帰りたい」と言わなかったこと。
これは本当にすごいことだと思います。
足もとがフラつく子どもたちに「どうする?」と聞くのですが、毎回返ってくる言葉は「歩く」の一言。
ある町で、スロバキアから来たお父さんと二人の子どもグループと出会いました。
自転車で旅をする彼らと話をすると、なんと二人の子どもたちはそれぞれお互いに同い年。
ステキな偶然に、言葉の通じない彼らはすぐに打ち解け仲良しになりました。
彼らの父親も僕と同年代だったこともあり、人生について、子どもたちについて、この道について、未来について色々と語り合いました。
その父親と話していた時に互いに共感しあえたのが「何のためにこの道を行くのか?」という問いかけに対する答え。
僕らの答えは、「これがいいと思っているから」。
それは「そこに行く」ことでも「やらせてあげる」ことでもなく、「一緒に行く」たったそれだけの答えでした。
違う文化、違う言語、違う価値観をもった者同士が子どもに対してできることのアレコレの中で、共感しあえるものを持っていられることに感動しました。
翌朝、雨の降りしきる中、弟サミュエルは、町のはずれの急こう配の坂道を登るのに一生懸命になっていました。
お父さんとお兄ちゃんは登り切った上で小さな弟が必死になって登ってくるのをじっと見つめながら待っていました。
僕らは、自転車で30分かけて登っていくサミュエルを下から見上げながらたくさんの勇気をもらいました。
「志」を何という言葉で伝えられるのかはわかりませんが、自分自身が一人で立っていられるように支えてくれる力のようなものは、こういった体験の中から得られるのかもしれないなと思い出すのでした。
旅するココロ
心に決めること。それは自分にしかできないこと。
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